青識亜論の「論点整理」

表現の自由に関する様々な事象について、ネットでの議論などを「論点整理」し、私の見解を述べるブログです。

「パブリックエネミー」発言の何が問題だったのか

 こんにちは、青識亜論です。

 青地イザンベール真美先生の「パブリックエネミー」発言が
ネットの一部で大炎上しましたね。
炎上の度合いとしては、かつての日向市サーファーCMに
勝るとも劣らない火勢であったように思いました。

 青地先生は、民進党の元都議会議員選挙候補者であり、
東京外国語大学上智大学で教鞭をとる政治学者でもあります。
性暴力被害者の人権擁護などの活動にも携わってこられたとか。
そのような方が、オタクや小児性愛者などの一部の属性集団をとらえ、
「パブリックエネミー」と名指したのであれば、
確かに問題は大きく、炎上しても仕方がないことだと言えるでしょう。

 しかし一方で、青地先生御自身は、
「オタクをパブリックエネミーと呼んだことはない」
と主張しておられ、またその主張を擁護する向きもあります。

 今回の発言を強く批判してこられた荻野区議と青地先生も和解し、
いったん騒動が落ち着いてきたこの時期に、
今一度冷静な目で一連の騒動を「論点整理」したいと思います。

 

 

【論点1】青地先生は「オタクはパブリックエネミー」と本当に言ったのか

 さて、それでは改めて、青地先生の元発言を確認してみましょう。

 確かに炎上しそうな要素はそろっています。

・何かを「豚」と言うことについて、「面倒なことにな」
・しかしその対象は「パブリックエネミー」だと明確にされるべきである
・その対象を指す厳しくて皆に通じやすい名称を欲している

 しかし、確かにこの発言だけを見れば、
「何を」豚やパブリックエネミーと言おうとしているのか、
確かに読み取ることはできません。

 発言の文脈を読み取る必要があります。
対話者である社虫太郎先生(社会学者)とのやり取りを見てみましょう。

 なるほど、確かに普通の国語力でこれを読むならば、
「パブリックエネミー」として名指しされているのは、
「児童・女性の差別的言動をする人々およびそれを擁護する人々」
であって、オタク一般ではありません。

したがって、単にこの文章を読むだけであれば、
「オタクをパブリックエネミーと呼んだことはない」
という青地先生の主張自体は、正しいことであるように思われます。

なるほど、そうなのかもしれません。
「萌え豚」という言葉を諫めているだけなのであれば、
青地先生が批判されるのは、理不尽なことであるように思えてきますね。

しかしそうであるなら、別の疑問が出てきます。
社虫先生が言い、青地先生が言い換えを提案した「萌え豚」ですが、
なぜ「萌え」と「児童・女性の差別発言」が、
自明的に関連付けられているのでしょうか。

それを確認するためには、ここ1か月ほどの「オタク差別」をめぐる論争を
簡単におさらいする必要があります。

次の論点に移りましょう。

 

【論点2】オタクを豚に例えるのは正しいか

 オタク差別という言葉が妥当かという問題をめぐり、
反差別界隈(cracさんなど)の次のような主張が出されたのが発端です。

オタクに対する偏見や攻撃があったとしても、
「オタク差別」という概念は成立しえない。
なぜならそれは、「豚を差別できないのと同様」だ、という主張です。

これに対して、私は次のように反論しました。

当たり前の話ですね。
オタクは、ほかの差別/被差別の関係性を形成しうる属性と同様に、
人間であるというのは大前提です。
豚と違い、人権を有する存在であり、自由と平等が保障されるべき存在で、
それらを犯すような不合理な取扱いは「差別」というべきです。
人間であるから、同じ人間として取り扱われるべきであるというのは、
差別論の基礎の基礎、人権問題において論証不要の所与の前提です。

この前提に対してはさすがに懐疑する人はいないだろうと思ったのですが、
思わぬところから批判が寄せられました。
児童文学者の田川先生です。

これについては、さすがに筋が悪すぎる問題提起でしたので、
直後に大炎上しています。
一連の流れについてさらに詳しく知りたい方は、まとめを御覧ください。

(参考まとめ)

もちろん私は、人間を豚に例示すること全般が不当だとは思いません。
「満足な豚よりも不満足な人間であれ」(J・S・ミル)のように、
人を豚やそのほかの物や動物に例える表現はいくらでもあります。

しかし、今回の「例示」は妥当なものでしょうか。

ある人の属性を理由にした不公正な扱いが差別となるのは、
その人が人権を有しているがためであり、
人間は人間というだけで、同じ人間として扱うべきであるからです。
「豚差別が存在しない」のは豚が人間ではないから、
人間として扱う必要もなく、したがって差別ではないからです。

もしそのこととオタク差別を並置してしまうのであれば、
それはオタクという属性集団に人権が存在しないと言っていること、
つまり人間として扱われるに値しないと言明することになるからです。

これが不当であることは、私は言うまでもないことだと考えるものです。

さて、こうした一連の議論を経て、
社虫先生の件のパブリックエネミー発言が提出されます。
長いですが、一連のツイートを引用しましょう。

つまり何を言っているかというと、

・オタクではなくむしろ「萌え豚」という言葉を使うべき
・萌え豚という言葉でパブリックエネミー的な批判対象を切り離し、
 構築主義的に批判対象だけを分析することができる
・侮蔑のニュアンスが嫌なら当事者から代替案を出せ

まあ、全体として無茶苦茶な主張であるように思われるのですが……。

特によくわからないのは、オタクとして指示された集団(の一部)に、
パブリックエネミー的な価値(女性・児童への差別)に動員されるような、
何らかの社会的構築物が形成されていると、前提されているところです。

(もしそうでないのなら、構築主義的に何を分析するのか意味不明となる)

そしてそこに加わっている人々は、「萌え」と呼ばれても差し支えない、
それどころかそう呼ぶことが外延を画定する上で望ましいことなのだ、
とさえ社虫先生は主張されているわけです。

この社虫先生の議論を受けて、
青地先生のパブリックエネミー発言につながっていくわけです。
だんだん、問題点が明らかになってきたのではないでしょうか。

 

【論点3】青地先生の発言の何が問題だったのか

改めて流れを見てみましょう。

社虫先生にあえてリプライを飛ばした以上、
ここまでの社虫先生の議論を踏まえて発言したはずです。
にもかかわらず、この「萌え豚」という呼称の問題は、

・言葉遣いだけで叩かれそうだから
・実名アカウントで豚と言ってしまうのが面倒なことになるから

としか言っていないわけです。
オタクの一部がパブリックエネミー的に取り扱われるべきであるという、
社虫先生の主張の前提を否定するどころか、
むしろ「明確にし」「厳しくかつ皆に通じやすい」名称を作ることを
求めてしまっています。

この「萌え豚」という言葉についても、
青地先生は「知らなかった」と述べているようです。

しかし、「萌え豚」という言葉によって、
カテゴリーの外延が明らかになるようなパブリックエネミーの集団がいる、
という社虫先生の発言を肯定的に引き受けてリプライしているのですから、
仮に言葉として知らなかったとしても、なんの免罪符にもなりません。

さらに、青地先生は、オタクという属性・集団について、
次のような独特の見解を述べられています。

つまり、青地先生にとってのオタクとは、
「二次元児童ポルノ愛好者」であり、
「団結してフェミニズムに組織的闘争を展開」する、
「一部の中核で過激な人々」である、と定義されているわけです。

さらに、オタク=二次元ポルノ愛好者について、次のように言っています。

(※元ツイートは削除済)

つまり、これらの主張をまとめると、

・オタクとはフェミニズムに政治的闘争を行う二次元ポルノ愛好者であり
・二次元ポルノの愛好者はフィクションと現実の区別がつかず
・一部に「萌え豚という言葉で外延が画定される集団」を含んでおり、
 パブリックエネミー的な価値観(児童・女性差別に動員されている
・しかし、萌え豚という言葉は批判を受けるので、
 厳しくかつ皆に通じやすい名称を考えるべき

であるということになります。

言うまでもありませんが、オタクとはそのようなものではありませんし、
趣味を同じくするだけの集団をそのようなものとして描き出すことは、
端的に言って不当というほかありません。

なぜこうなってしまったのでしょうか。

これは、青地先生に固有の問題ではなく、
誰もが陥る可能性のある誤謬を含んでいると思います。
最後に、そのことを分析したいと思います。

 

【結論】対立者を人間として扱え

オタクという集団が、青地先生が想像するような、
おどろおどろしい悪の秘密結社でないことは、
普通に考えればすぐわかりそうなものです。

にもかかわらず、優れた政治感覚を持つはずの政治学者が、
しかも差異を抱えた他者に対して優しい視線を向け続けてきたはずの、
人権活動家でもある青地先生のような人物が、
オタクに対して想像力を欠いた(あるいは過剰な想像力を働かせた)
言明を繰り返してしまったのは、いったいなぜでしょうか。

一言で言えば、それは対立者の悪魔化です。

私達は、自分と異なる信念を抱いていたリ、
自分たちと異なる正義を持つ集団に直面した時に、
彼らが自分たちとは根本として異なる存在であり、
理解不能なのだと結論しがちです。
それはとても楽なことだからです。
相手が何か自分と異なる、対話も理解も不可能な存在であると仮定すれば、
相手がなぜ自分たちと異なった主張をし、異なった考え方を持ったのか、
そのことを考えずにすみます。
そして自分たちの「正しさ」を価値観の揺らぎから守ることができます。

偶然にもこの炎上があった直後、新潟市女児殺害事件が発生しました。

自分たちと異なる「ロリコン」「オタク」だから、
女児殺害事件のような悲惨な事件を起こ