青識亜論の「論点整理」

表現の自由に関する様々な事象について、ネットでの議論などを「論点整理」し、私の見解を述べるブログです。

『二度目の人生を異世界で』を巡る議論について

 こんにちは、青識亜論です。

 さて、異世界転生系ライトノベル二度目の人生を異世界で』について、
各界隈で様々な議論が巻き起こっているようです。
作品そのものの評価はさておくとして……多くの興味深い論点を含む反面、
論点が多岐にわたり、いささか混乱しているようにも見受けられます。

 今回は、当該作品を巡る諸論点について整理してみたいと思います。

 

 

論点1 作者の「虫国」発言は批判されるべきか

 改めて、批判を受けている作者の5年前の発言を見てみましょう。

 「ちゅうごく」の読みを虫に置き換え、
侮蔑的な意味を持たせたものであって、
この発言自体に弁明の余地があるようには思われません。

 この騒動があった際に、私は最初に次のように述べました。

 中国という国が例えどのようなものであるとしても、
それにルーツを持つ人々にとっては、多くの場合、
アイデンティティの根幹に関わる、きわめて重要なものであるはずです。

 それは、いわゆるネット右翼の人が日本を愛する気持ちと、
根本的には同じものであるはずであり、
そのものが「虫」のように辱しめられたときに被る痛みは、
通常の想像力があれば容易に理解できたはずのものです。

 まして、想像力を売りにする作家という立場の方なのですから、
それはなおのことのはずなのです。

 この発言を擁護する文脈で、
「中国人は反日感情を持っているのだから、
 侮蔑的な表現で報復して何が悪いのだ」
 とか、
「日本だけやられっぱなしでいいのか」
 というような発言も散見されました。

 しかし、反日に対して侮蔑的な表現で報復することで、
相互の憎しみ以外のいったい何が生まれるのでしょうか。
侮蔑で生じる痛みは、新たな侮蔑を生むだけです。
「相手がやっているから」ということは、
この場合、発言の不当性を補償することには一切つながりません。

 改めて論じるまでもないことかもしれませんが、
この言葉を引用して当該論点を締めようと思います。

「『目には目を』では世界が盲目になるだけだ」
 ――マハトマ・ガンジー

 

論点2 『二度目の人生を異世界で』の主人公は中国人を虐殺したのか

(2018.6.10 論点のタイトル等修正)

 次に、作品における「中国人虐殺」の事実について検証しましょう。

 問題となる部分の画像を引用します。

 当該部分を読む限りにおいて、
「世界大戦に従軍」としか記述されていません。
もちろん、中国国民党は世界大戦における日本の交戦相手でありますから、
従軍経験の中で交戦・殺害した可能性は十分にありえます。

 しかしそれを言うのであれば、
戦争における英雄的な人物の全般をフィクションで扱ってはならない、
ということになってしまいますから、端的に言って行き過ぎの批判です。
(戦争における英雄とは多くの人を殺した人でもあるはずです)

 そのような批判に対して、
「単なる戦争での殺人描写ではない」とするために、
(主として中国の側で(?))次のような主張もなされているようです。

 94歳死亡という設定から、
南京攻略戦に参加した朝香宮鳩彦王を仄めかしているというのは、
あまりにも牽強付会というべきでしょう。
フィクションの製作者が差別や侮蔑にならないよう気を付けるべきだ、
ということは一般論として妥当するとしても、
登場人物の没年齢にまで気を使え、というのは過大な要求です。

 また、「敵国首都で2000人以上殺し」とか、
南京大虐殺や殺人試合を仄めかす」という描写については、
私は1巻を読んだにすぎないのですが、
書籍版でそのような記述は見当たりませんでした。
(続刊でそのような記述があるのでしょうか……?
 もし御存知の方がいれば、教えていただければ幸いです)

 したがって、現時点で分かっている情報の範囲で言えば、
この「中国人を虐殺した主人公のフィクション」というレッテルは、
率直にデマとして棄却するべきものであると考えられます。

 確かに、作者の過去の「虫国」発言をはじめとする、
侮蔑的な発言の数々は、批判を受けるべきものであると私も思います。

 しかしそのことは、その人が発表した作品について、
書いてもいないことを読み込み、批判することを正当化しません。

 この論点については、「事実ではない」と結論したいと思います。

 

論点3 『二度目の人生を異世界で』の作者は「表現の自由」を侵害されたのか

 私が把握している限り、事態は次のような経過をたどっています。

-----------------------------------------------------------------------------------

・作者の過去の「虫国」発言(事実)が露見
・中国人を虐殺した主人公の作品である(虚偽)と広まる

・中国で批判が集まり炎上
・声優に対する脅迫(?)の書き込みあり(削除済)

作者本人の意思で作品を回収・修正する旨の発表

・声優が降板
・アニメ制作委員会がアニメ化の中止を発表
出版社に対する脅迫等の事実は把握していないと公式発表あり
(関係者への脅迫そのものは存在した(?))

(2018.06.10 すくすくさん他の指摘により事実関係・時系列を修正)

-----------------------------------------------------------------------------------

 この一連の流れのうち、表現の自由にかかわる問題があるとすれば、
声優に対する脅迫の部分のみです。

 もしも本当にこのような発言があったとすれば、
それは表現行為に対するテロルであり、それこそシャルリの事件のように、
私達は一致団結して脅迫から表現の自由を守るべきです。

 しかしそれ以外の部分については、
作者の表現の自由の侵害であるとは言えないものばかりです。

 作品を批判することは、たとえそれが誤ったものであったとしても、
批判することそれ自体は自由でなければなりません。

 声優の降板についても、
仮に本人ではなく事務所の判断によって降板が決まったとしても、
それ自体が自由の侵害だとは言えないでしょう。

 中国への商業展開を今後視野に入れるのであれば、
「反中」とのイメージを避けるべきだという判断は、
商業戦略的に妥当なものであるとみることもできます。
アイドルの恋愛を事務所が禁じることなどと同様の、
所属声優に対するイメージ戦略であるとみることができます。

 アニメ化の中止は、リスクやコストと利益を勘案したうえでの、
アニメ制作委員会の参加者やスポンサーの商業的判断にすぎません。

 それらは、少なくとも「作者の表現の自由」として保護を要求するには、
あまりにも本来の自由の意味から離れすぎています。

 

論点4 市場の論理から表現物を守るものは何か

 表現の自由の理念による絶対的な保護を要求できないとすれば、
私達はいかにして不可視化を求める人々の圧力に対抗するべきでしょうか。

 結論から言えば、ここに特効薬はありません。

 表現が単に誤っているとか、不当だとか、不愉快であるという、
単なる対抗言論の範疇を超えて、
表現を不可視にせよという申立が提出されたときには、
その申立の正当性を徹底的に問うという方法しかありません。

 自分が気にくわない表現や対立者の表現だけを不可視化したい
という欲望を、確かに私達は抱きがちです。

 しかし、その欲望は、私は反倫理的なものであると考えます。
 私達は、自分と異なる立場や嗜好を持つ他者の欲望に対して、
これを尊重するある種の倫理的な義務を負うと私は考えます。
 また、自分の価値観と異なる者たちの表現行為を、
それ自体、尊重されるべきものとして扱う必要があります。

 これは「嫌悪してはならない」ということではありません。

 また、不可視化するような主張を禁止せよ、ということでもない。

 感情も自由だし、表現も自由です。
 でも、自由でありながら、互いに尊重しあわなければならない。
 ヘイトスピーチが自由でありながら、
 それでも許されないものとして「倫理的批判」を受けるのは、
 相互尊重という倫理規範が基底にある、と私は考えます。

 今回、事象としては「ネトウヨ」の作者が市場の論理によって、
アニメ化中止という結末を迎えただけ、のように見えます。

 しかし、この市場の論理というのは双方向的に機能しうるものです。

 今回の事例も、左右を反転させてみて考えれば、
場の論理だから仕方がない、とは言えないはずです。

 例えば、高須院長がスポンサー権をちらつかせて、
テレビ番組の編集や報道内容を変更するように迫ることは妥当でしょうか。

 あるいは、右派が抗議運動によって、
本宮ひろ志国が燃える』の連載を中止するよう働きかけたことは、
「抗議運動は自由であり、商業判断も自由だ」というだけで、
まったく正当なことであったと言えるでしょうか。

 ヴォルテール磁場という用語法が何ともcdbさん独特のノリですが、
でも非常に重要なことを指摘していると思います。

 自分が気にくわない表現を「不可視化」するよう要求し、
金と力のパワーゲームの敗者を消していくという世界においては、
勝利するものはマジョリティであり、
敗北するのはマイノリティということになっていくでしょう。
仮にそこで自由が形式的に保障されていたとしても、
実質的に私達はそこでつかみ取るはずだったものを失っている、
ということになりかねません。

 であるからこそ私達は、
自分たちにとって気にくわない表現に対して、
それを批判するとか、論評するということはするとしても、
不可視化を要求するとか、表現者の表現行為それ自体への妨害をするよう、
私達は求めるべきではない、と思うのです。

 この相互尊重の積み重ねが、
お互いに表現することそれ自体は尊重しあうという社会――
cdbさんいわくの「ヴォルテール磁場」――を
形成していくのではないか、と私は考えます。

 それが資本主義という巨大なシステムに対抗しうるものになるのか。
それは私達の覚悟にかかっていると考えるものです。

 

結論

・作者の「虫国」発言は、当該国にアイデンティティを持つ人々を
 いたずらに傷つけるものであり、批判されて当然である。

・『二度目の人生を異世界で』の主人公は現時点の情報を見る限り、
 作中で中国人を虐殺したという直接の記述はない
 南京事件とのかかわりも単なるこじつけである。
(2018.6.10 修正)

・本件において表現の自由を侵害した/された人はいない。

・しかしそうであったとしても、作者の過去の発言だけをもとに、
 作品そのものを不可視化せよという主張に根拠はない。

・根拠なく気にくわない作品を市場の論理で不可視化することを
 繰り返していけば、金と力のパワーゲームとなってしまう。
 私達はそれを避けるため、表現行為に関しては、
 相互尊重の倫理的責務を引き受けるべきだ。

 青識亜論

 

(追記)

ヘイトスピーチなどのように、誰かを明白に傷つけることが予見される、
 あるいはそれを目的として発話されるような表現の場合は、
 表現の不可視化=表現そのものの自体を取りやめるべきだという主張が、
 十分に成り立ちうると考える。

・なぜ「その表現が不可視になるべきなのか」ということについて、
 その線引きも含め、泥臭い議論が必要になると考えられる。

・このあたりの基本戦略は、萌え表現を巡るフェミニズム批判とも
 ある種の共通した方法論を見出すことが可能ではないかと思う。
 これについては、いずれ別途noteにまとめたい。