小宮・青識論争――または「最善の相」について
長い論争がありました。
セクシズムやレイシズムに基づく海外の人からの発言に対して怒るべきか、についての小宮友根氏と青識亜論氏の対話(継続中)
振り返ると、二人合わせて500ツイートにも上ったようですね。
多くの観客の方にも見ていただき、様々な御批判もいただきました。
非常に勉強になり、私としては得るところが大きかったです。
小宮友根先生におかれては、学会前のお忙しいところ、
きわめて丁寧に御返答をいただき、大変ありがとうございました。
当該議論における論点も簡潔にまとめていただいており、
議論を復習するのに大変役に立ちます。
小宮主張再説
また、観戦しておいでた江口先生も、
以下のように感想を書いていただいています。
チラシの裏:小宮青識論争観戦記
以後、この二つのテキストを基に、
私の見解を書いていきたいと思いますので、
どうぞよろしくお願いいたします。
論点1 この発言をどう解釈するか
このjijiさんの言葉について、私は次のようにコメントしました。
快男児氏「日本男児として外国人の友人から「日本女はなぜ簡単にやらせてくれるの」と真顔で聞かれると答えに困る」
jiji氏「あなた自身が馬鹿にされているんだよ」「「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらせてくれるの」なんて聞くのは喧嘩を売ってるのと同義」
ここで問題となるのは、
「あなたの国の女性(日本女)」は「(なぜ)簡単にやらせてくれるの」
がなぜ、
「あなた自身が馬鹿にされている(侮辱)」
となりうるのか、ということです。
一連の議論のキーワードとなったのは、「性の二重規準」という言葉です。
これはありていに言いますと、
「女性は貞操観念を持つべき(男性はそうではない)」
という偏見のことを言います。フェミニズムはそれを批判してきました。
私はjijiさんはその偏見を保持したまま発言しているという解釈をし、
小宮先生はそうではないと述べました。
ここが今回、小宮先生と私の立場の違いを生んでいると言えます。
【青識亜論の解釈】
私のほうの読解はそんなにひねったものではありません。
まず、ここでいう外国人の友人は、
「真顔で」聞いたという想定なのですから、
どういうふうな文脈で発話したのかは、正直わかりません。
しかし、快男児さんの側は性的保守主義を持っているようですから、
(このことについては争いがないと思います)
日本女性に貞操観念がないと思われることを自国民の恥だと考え、
「海外には貞操観念をもって行きましょう」
と発話した、というふうに読めると思います。
良し悪しは別として、ガチ保守の人の考えとして読めば、
筋は通っているとは言えるでしょう。
Twitterの「欧米出羽守」の逆バージョンみたいな感じでしょうか。
で、それを聞いたjijiさんは、
「あなた自身が馬鹿にされているんだよ」「喧嘩売ってるのと同義」
と反応しました。
なぜ日本人女性が性的に奔放であることが、
日本人男性である話者に対する「侮辱」になるのでしょうか。
ごく素直に考えれば、jijiさんも日本人女性に対する侮辱と捉えており、
日本人女性の名誉を損なう発言を外国人からぶつけられることは、
日本人男性なら自分自身の名誉を傷つけられたと理解すべきだ、
と言っているように読めます。
少なくとも、私はそのように解釈しました。
この理解はそんなに奇抜なものではないと言いますか、
やり取りを何の前提もなく読んだ人が普通に受ける印象だと思います。
実際、観戦されていた江口先生も次のように述べています。
先にも指摘したように、これが侮辱であるためには、人は(あるいは「男性は」)その人に関係する女性が性的に活発だという含みのことを言われたらすべて侮辱されていると解釈するべきだ、ぐらいの判断が裏にないと正当化されないが、これを正当化するのはむずかしい。少なくともセックスリバタリアン的な傾向のフェミニズムとは相性が悪いのは意識するべきだろう。
誰かを尻軽(slutty)であると指摘することはふつう悪口であり、これはフェミニズムとは関係なく悪口である。王道フェミニズムの立場からは、誰かが誰かを尻軽だと判断しても、それはなんら悪口とならないと主張しなければならないだろうと思う(もちろんここはいろいろ議論がありえるところ)。でもとりあえず誰かを尻軽であるとする悪口は、フェミニズムの観点を抜いても悪口でありえるし、そっちの悪口である場合の方が可能性濃厚だと思う
さらに、一般に男性となんらかの関係のある女性の性的な活動が活発であると指摘することは、女性の名誉を傷つけることであり、また、同時に彼女と関係する男性の名誉も傷つける、という考え方は保守的な「名誉の文化」では非常に重要な発想だろうと思うけど、これはフェミニズムとはあいいれない側面が大きいと思う。
要するに、
「面と向かって自国女性の悪口を言うのは男性を馬鹿にしていること」
もっと言えば、
「自国女性を馬鹿にされてヘラヘラしてるんじゃねえ、チキン野郎」
という話なのかなと読みました。
で、この発言につながるわけです。
フェミニズム云々別にすれば、
普通にナショナリスティックな怒りとしてありうるものだとは思いますよ。
良いか悪いかはもちろん別論としても。
次は小宮先生の解釈を考えてみましょう。
【小宮先生の解釈】
詳細については
つまりはこういうことのようです。
ちなみに「よ」という終助詞は伝えられる情報について聞き手よりも発言者のほうが知っているという発言者の想定を示す働きをするので、「それはXだよ」は多くの場合「聞き手よりも自分のほうが知っていることを教える」という含意を持つでしょう。
(中略)
したがって最初のツイートの「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ」というJ発言も、Sに対してF発言の意味を伝えることで「JがSによるF発言の理解を正している」と理解する合理性があります。
さてF発言がこうした性差別的価値観にもとづいていると考えると、F発言の人種/国籍差別性は「あなたの国の女性が自分の性を簡単に外国人男性に所有させている」という仕方で「あなたの国」の女性を貶めている点にあると理解できると思います。
つまり、F発言の人種/国籍差別性は、自国の女性の性は自国の男性の所有物であるという性差別的考えを前提にしていると考えられます。
そして、そうした前提をもった発言が「あなたの国」の男性Sに向けられるとき、それは「あなたは自分の所有物である自国の女性の性を外国人男性に奪われている」という仕方でSを侮辱していると理解できると思います。
え?
なんでこうなるんですか?
整理するとつまりこれはこういうことですよね。
①外国人友人(F)と快男児氏(S)は「性差別的価値観」を持っていて、
「自国の女性の性は自国の男性の所有物である」と思っており、
②外国人友人(F)は「お前の国から女性を奪ってやったぜ」と発言して
快男児氏(S)を侮辱しているが、
③フェミニズムに無知な快男児氏(S)はそれに気づいていないので
④フェミニストであるjiji氏(J)が教えてあげた
という解釈であるということになりますよね。
(合ってますか?)
いや……あの……
そもそも、外国人の「友人」が「真顔」で聞いている前提なのに、
なんでそんな性差別的価値観に基づく、
極端な侮辱が行われているはずだと決めつけているんですか?
外国人友人が性差別主義者であって、
「自国の女性の性は自国の男性の所有物である」と思っていること、
なにかtweet内に根拠がありましたっけ?
確かにこの解釈であれば、
jijiさんのフェミニストとしての正当性は護持できますが、
外国人友人と快男児氏を思い込みで性差別的価値観の持ち主と
決めつけたことになってしまいますけど、それでいいんですか?
というか、特定のフェミニストの思想的正当性を守る為に、
広範囲に差別認定をばら撒く思想でしたっけ。
なんだろう、修羅の国の思想かな?
論点2 最善の相とはなんだったのか
こうなると最初の小宮先生の主張に立ち戻らざるをえません。
はい、みなさん注目↓
えっと
先ほどの先生の解釈でいくと、
jijiさんが快男児さんを批判するにあたって、
とてもではないですが「最善の相」を参照したとは言えないのでは?
まず外国人友人氏の発言をめちゃくちゃ最悪の相で解釈していますよね。
※小宮先生との議論が始まった9/3時点のtweetです
で、この種の批判を受けて、小宮先生はさらにテキストを追加しました。
こちらです。
「最善の相」について
J発言について、それがフェミニズムの考えに抵触するという解釈と、しないという解釈のいずれもが合理的であるのなら、フェミニストが前者を採用すべきであるということが示されない限り、『フェミニストはJ発言を批判すべき』とは言えない
それはつまり、フェミニストのある発言が存在したとして、
フェミニズムに抵触する解釈が仮に存在したとしても、
絶対に言い逃れができないような確固たる論拠が挙げられない限り、
フェミニストは批判する倫理的責務を負わないということですよね。
それ、いいんですか?
いや、私も別に、「批判すべき」とは言えなくてもかまいません。
ただし、そんな思想が提案する正義構想のフェアネスを一切信用することはできないと思いますけどね。
おさらいですが、
これまでフェミニストが批判してきた表象を見てみましょう。
人工知能学会の表紙絵
美少女柄冷却材(殴ると冷たくなる美少女)
碧志摩メグ(志摩市)
ルミネCM
日向市CM
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はい、いかがだったでしょうか。
最善の相、見えましたか?
もちろん、小宮先生がそうした流れに無批判に乗っているとは思いません。でも、フェミニストがフェミニズムの観点から批判を受けるときには、
「最善の相」で解釈しうる限りは、
「フェミニストは批判しなくてもよいのだ」
と言い、
フェミニストのものではない表現については、
いかようにも苛烈に攻撃しても良いのだとするのならば、
そんな思想に何らかの正当性が残されていますか?
攻撃側に回るときには最強の矛で、
防御するときは最強の盾になるなんて思想、
私は「矛盾」っていうと思うのですが。
それとも、表現者は「フェミニスト」って鉢巻でも巻いておけば、
「最善の相」で解釈してもらえるんですかね?
どう思います、小宮先生?
私からは以上です。
ありがとうございました。