青識亜論の「論点整理」

表現の自由に関する様々な事象について、ネットでの議論などを「論点整理」し、私の見解を述べるブログです。

ポルノグラフィは福祉である ~「性の商品化」礼賛論~

 

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海外のポルノ撮影現場(wikiより抜粋)

 

誰もはっきりと言わないので書くが、

ポルノグラフィは福祉としての側面がある。

 

福祉(welfare)とは何か。

経済学的には「厚生」とも称されるそれは、人間が通常追求する幸福の総量であり、

有限で稀少性のある資源(リソース)の獲得と定義される。

そして、厚生経済学の始祖A・C・ピグーによれば、

資源の分配が不足している貧困者が獲得する一単位の資源は、

豊かで余剰の資源を有する富裕者が獲得する場合よりも多くの厚生を生み出す。

 

小難しい言い回しになったが、要するに福祉の基本原理というのは、

豊かな人生を送るための何かが不足している人に対して、

それを再分配してあげることなのだ、ということである。

 

これは、現代的な福祉国家の基礎となっている理念である。

 

ところで、私たちは多くの場合、他者からの承認を欲する。

それも、特に異性からの承認を不可欠不可避的に欲求する。

マズロー自己実現理論のピラミッドにおいて、

社会的欲求の重要な要素として「Love」が挙げられているのは有名な話だ。

 

ja.wikipedia.org

 

 

そのような小難しい理論によらずとも、

私たちは自己の青春期の経験から、そのことを覚知しているはずだ。

誰しもが通常、性的に魅力的な異性から、

無条件の好意や信頼を向けられたいと思う。

 

そして、その究極の承認の形態として、セックスを欲求するのである。

 

しかし、私たちは有限な人間であり、万人に愛を向けることはできない。

私たちは人を差別するし、選択的に誰かを愛する。

愛と承認はきわめて有限な資源だ。

その資源を巡って、私たちは取り合い、競争し、勝ったり負けたりするのである。

このことは、前回、「林檎」という比喩を使って論じたところである。

 

note.mu

  

dokuninjin7.hatenadiary.jp

 

今回は、林檎の樹から落ちた後の話をしよう。

 

通常、私たちは自分が望んだだけの愛や承認を得ることは困難である。

現代社会では、近代以前と比べ、衣食住が不足することは相対的に少なくなったが、

愛やセックスという資源は常に不足している。

それどころか、人権つまり人格という資源の価値が高騰した現代社会において、

それはある意味では最も得難い資源の一つでさえある。

恋愛という現代の新しい市場において、日々私たちは膨大な労力と費用を投じて、

異性からのパートナーシップを得ようと躍起になっているのである*1

 

そうした市場において、敗者は常にある。

完全完璧に望み通りの性愛を手に入れることが困難であるという点では、

私たちのほとんど誰もが敗者であるとさえいえる。

しかも、性愛という資源は性質上、そのものを再分配することは困難である。

食料や衣料品を分配することとは、その点で大きく異なっている。

性愛は人格と不可分に結びついているから、社会的な再分配の実施とは、

再分配される性愛資源の所有者の人格権の著しい侵害に他ならないからである。

 

ならば、どうすればいいのか。

限りある愛と承認の分配を受けられない個人は、いかにして救済されるべきか。

フェミニストは決してこの問いに答えようとしない。

 

福祉として愛と承認が分配されるためには、

その資源から人格を一定程度切り離す必要がある。

私たちの愛は通常、「たった一つのもの」「ほかならぬあなたに捧げるもの」である。

しかし、そのようなものとして愛を観念している限りにおいて、

その「選ばれし人間」となれない敗者は、愛を享受しえないのである。

 

ならば答えは一つしかない。

誰しもが求めうる愛が必要である。

人格的承認を必要としない、愛が必要なのである。

衣食住と同じように、市場で簡便に購いうるものとして愛が必要である。

誰しもに対して平等に開かれた、愛が。

 

つまり、性の商品化がどうしても必要なのである。

 

マルクス主義の影響であろうが、

私たちは商品化というものにネガティブなイメージを持ちがちである。

しかし、はっきりと言うが、商品化は人を平等にしたのである。

 

たとえば古代ギリシャにおける富裕な人にとっては、現代の水道システムから利益を得ることはほとんど何もなかった。水道システムのおかげで水が自由に出るようになったということは、そのために召使を使う必要がなくなったというだけのことだ。テレビやラジオもそうだ。古代ローマの貴族は、一流の音楽家や俳優を自分のうちで観ることができた。いや、それどころか、一流の音楽家や俳優を自宅に置いておくことさえできたのだ。既製服とかスーパーマーケットとか、この種のすべてのことやその他現代の発展によってもたらされたことは、彼らの生活にほとんど何ものも加えなかった。(ミルトン・フリードマン『選択の自由』) 

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ミルトン・フリードマン

 

蜂蜜やシャンパン、一流の演劇や彩り豊かな衣服などの嗜好品は、

中世の封建時代、お抱えの職人や荘園を有する富裕階級の独占物であった。

稀少であるがゆえに、庶民が入手することを厳しく罰する法律を作ることさえあった。

それらが庶民の手に入るようになったのは、大量生産の手法が確立され、

市場に商品として当たり前に流通するようになったためである。

商品化されることにより、そのものからは特権性がはく奪され、

誰しもが平等に商品を手に入れることができるようになった。

そして今や、そうした(中世の人々から見れば)贅沢な衣食住は、

私たちの社会においては「健康で文化的な最低限度の生活」にさえなっている。

これは、人格ではなく金銭を給付の要件とした(商品化)したことの効用である。

商品化は人を平等にし、貴族の特権を福祉に変化させるのである。

  

私たちがこの商品の列に、人間の愛を加えるよう要求することは、

そんなにも非人間的な罪悪なのだろうか。

私は逆であると思う。

性が商品化される(された)ことにより、愛を得られなかった人々は、

少なくとも商品化された性愛を手に入れる機会が生まれたのである。

これは、不足した資源を補給する手段が増えたということであり

――完全に根源的な意味での――「福祉」に他ならない。

性の商品化とは、とりもなおさずヒューマニズムである。

 

グラビア雑誌を開けば、完璧に美しく均整のとれた体つきのアイドルが、

「読者である《あなた》を愛する」という意味のメッセージを放っている。

疑似的で、欺瞞的、しかしそれは紛れもなく商品化された性愛である。

そのように洗練された容姿の人間からの愛を受け取ることは、

性の商品化が今日ほど進展する以前の時代においては、

王や貴族が寵姫を抱えるぐらいしか手段がなかったであろう。

性の商品化は、性愛を民主化したのである*2

 

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近代最初の性愛文学『ファニー・ヒル』の挿絵。各国で発禁処分を受けた。

 

私たちは確かに万人を愛することなどできない。

しかし、だからどうだというのだ。

アイドルとして自らの性を商品化し、

かりそめにも万人への愛を口にする人がいるからこそ、

「ほかならぬあなた」「特別な一人」に選ばれなかった人もまた、

愛や承認の分配にあずかることができるのである。

 

「そんなものは本物の愛じゃない」と怒る人もいるかもしれない。

しかし、本物の愛とやらに何の意味があるのだろうか。

それは、飢えた家族が口にする一杯のかけ蕎麦に、

「そんなのは本物の蕎麦じゃない」と山岡士郎ばりに言い放つのと同じ程度のことだ。

十割そば以外は蕎麦として認めないぞ、などという戯言は、

天然自然の愛を得られるリア充と美食倶楽部にでも言わせておけばいい。

 

愛に飢えた人の腹を満たすために、私たちは性を商品化しよう。

松下幸之助水道哲学よろしく、性愛を水道水と同じぐらいありふれたものとして、

あまねくすべての非モテたちに供給される社会を作ろう。

生産技術の高まりにより、手作りの料理とコンビニ食品の差がゼロに近づいたように、

社会の進歩は、いつしか愛も本物と偽物の区別がつかない時代をもたらすだろう。

林檎の樹のプランテーションの真ん中で、やがて愛の言葉を叫ぼうではないか。

 

偽物の愛で何が悪いのか、と。

 

note.mu

 

性の商品化は私たちにますます多様な形態の性愛を、 

容易に入手できるようにしつつある。

素晴らしく美しい肢体を持つアイドルたちがファンへの愛をまことしやかに語り、

近時では身体への接触を伴うサービスへも容易にアクセスできるようになった。

また、フィクションの領野に目を向ければ、小説や漫画は言うに及ばず、

インタラクティブな体験を可能とするゲームやVRが所狭しと店舗にあふれている。

商品化された性愛の市場が広大に、豊穣に、実り多きものとなっているのは、

日々工夫と研鑽を重ねるアイドルやクリエイターの皆さんのおかげである。

私は彼ら彼女らに最大級の賛辞と、感謝を捧げたい。

 

あなたがたのおかげで、どれほど多くの人の「飢え」が救われていることか。

 

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アダルトビデオの陳列(wikiより抜粋)

  

性的消費だとか、大量消費社会だとか、馬鹿げた文句は放っておけばよろしい。

そうやって石を投げる者の誰が、飢えた人の心を満たすことができるのか。

彼らは何の解決策も持っていないのである。

今まさに飢えた人々の横で、ラッダイト運動にかまけるのは、ただの愚か者だ。

 

性の商品化は、性愛資源の分配を受けられない人々のための福祉であり、

それは彼らを救済する唯一のテクノロジーである。

 

私は全身全霊をもって、性の商品化を礼賛するものである。

 

 

 

青識亜論

 

 

 

(追記 2019.9.7)

こうした性の商品化の過程においては、

商品化される対象の同意、特に女性の主体的な意志を反映せず、

暴力的に制作されたポルノ作品が存在することも残念ながら事実である。

言うまでもないことだが、そうした制作過程の暴力については、

いかなる意味でも擁護不可能であり、

全面的に反対であることははっきりと記しておく。

*1:便宜的に「異性」と書いているが、LGBTそのほかのセクシャルマイノリティであっても、人間を性愛の対象とする場合においては、事情は同じであろうと思われる。それどころか、ペドフィリアなどの性的嗜好・志向を有する人々は、自らが望む性愛について、他の場合よりも甚だ困難な社会的・物理的ハードルが存在することが多い。

*2:性の商品化、その最も一般的形態であるポルノグラフィというものの登場は、奇しくもフランス革命前後である。リン・ハント『 ポルノグラフィの発明―猥褻と近代の起源 』によれば、pornographieという言葉が現代のいわゆる性表現の意味で使わるようになったのは、1780年代のことで、サン・ジュストミラボーといった偉大な革命家たちは、アンシャンレジームの堕落したイメージを民衆に広めるため、しばしば官能小説のような形態をとり、宮廷生活を淫らに描写する著作を出版した。これがポルノと呼ばれるようになり、やがて性表現の代名詞となったのだという。活版印刷がマスメディアを生み、政治を民主化したというのはよく語られることであるが、性愛もまた、活版印刷によって民主化されたと言うと……少し言い過ぎであろうか。