討論会後記:それでもなお、寛容と対話を(青識亜論)
これフェミ討論会に参加いただいたみなさん、また、運営側で尽力してくれたみなさん、本当にお疲れさまでした。
私は、言うべきことは討論会の中で全て言いましたし、議事録的なものは書かないと決めていたので、当初、沈黙するつもりでしたが、登壇のお二人(小保内氏、石川氏)が記事を書かれたようですので、ごく簡単にですが、後記というかたちで今の所感を書きたいと思います。
人格攻撃はもうやめましょう
まず第一に私が言いたいのはこれです。
確かに、石川氏が討論会で出した結論を、会の後で180度ひっくり返したことについて、参加者や関係者のみなさんが怒る気持ちは分かります。その感情それ自体は正当性のあるものです。現に、私も憤りました。
しかし、そこで怒りを延々とぶちまけ、フェミニストは対話に値しない人々だと憤懣を募らせるのは、結局、フェミニストとそれに反対する人々との、対話の可能性を塞ぐものでしかありません。
今回の討論会を立ち上げたのは、そういった分断をなんとかしようという動機でしたし、参加者、関係者のみなさんはそれを期待して少なくないコストを負担したはずです。
その努力を無にするのはやめましょう。
石川氏から見た私がどうかはわかりませんが、私から見て、石川氏は尊敬するべき対立者でした。比類なき勇気をもったフェミニストでした。小保内氏も言及されていたように、誤った方法で論及をしても素早く論理の筋を変更するだけの、鋭い知性の持ち主であり、しかも、フェミニズムという思想の表面だけを撫でるのではなく、自分の言葉でかみ砕いて、私や聴衆にわかるように説明しようと最後まで努められていました。
だからこそ、一定の、ほんの小さいものかもしれませんが、相互理解の種をともにまくことができたのです。
もちろん、繰り返しになりますが、会の後に発言を翻したことは、フェアネスに欠くと見る向きもあるかもしれません(そしてそれは事実でしょう)。
しかし、想像してみてください。アウェーな環境で、自分の論理や主張を十分に尽くせず、同意したくないことに同意してしまったとき、あなたならどう思いますか。
私ならばとても悔しく思いますし、泣き言の一つでも吐いたかもしれません。
そこを行くと、ブログの最後に「私は勝手に勝負します」と言い、世界を変えてやるとの決意を述べた石川氏の態度は前向きであり、輝かしいものです。
私は、そこに宿る決意の純真さと正しさを信じたいと思います。
そして、今は決定的に決裂したとしても、いずれ巡り巡ってまた、相互理解にチャレンジすることができる未来を、私は願い、今日も異論者に対話を求める言葉を紡ぎ続けたいと思います。
だから、今一度、みなさん、人格攻撃をやめて、寛容の精神に立ち返りましょう。
それは、表現の自由という理念を支える、最も気高い志であったはずですから。
われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられている。 われわれの愚行をたがいに宥しあおう。これが自然の第一の掟である。
――ヴォルテール『哲学辞典』
フェミニストのみなさんに望むこと
私の企画や運営、そして当日のパフォーマンスが至らないために、対話として様々な欠落があったことは事実です。それは司会の小保内氏も厳しく指摘したところで、そこははっきりと認めたいと思います。
しかし、一方で、それは次に修正すれば、より良い対話の場を作ることができるという兆しでもあるはずです。
また、そうした私の落ち度のために、もしも石川氏が十分に自らの主張ができず、不本意な同意や言明をしてしまったというのであれば、彼女と志を同じくする方々(つまり、「フェミニスト」の皆さん)は、その言葉足らずを補い、さらに良い対話の場をデザインすることができるはずです。
私は、討論会の中で「世界を変えるのは革命ではない。今をほんの少しずつ良くしていく改善の積み重ねだ」と述べました。
革命的に素晴らしい対話で、誰も傷つくことなく相互理解が成立するなどありえません。
思想や世界観が全く異なる人々同士の対話というのは、「ヤマアラシのジレンマ」にも似て、血を流し痛みを与えあい傷つきながら、やっと成功するものです。
傷つきをおそれていては、私たちはいつまでも対立したままです。
だから、討論しましょう。対話を重ねましょう。傷つきに懲りず、飽くことも倦むこともなく、主張と反論を積み重ねていきましょう。そこで得られる気づきは、傷つきと比べてはるかに薄っぺらくはかないものだとしても、それをミルフィーユのように重ねていくしかないのです。
どうか。このような対話の場を何段にも重ねていきましょう。
そして、その可能性を示せたということが、まずはこの討論会の成果だと言えるよう、私は願ってやみません。
女性の自由を守る戦いにおいて、覚えておくべきことがある。言論の自由がすべての始まりだと言うことだ。沈黙していては、私たちはいつまでも前へ進むことなどできない。発言の自由のない自由は偽物だ。言論統制を許してはならない。それが我々の目標だ。診療所でも、大学でも、講演するときも、いつなんどきも、それが我々の目標なのだ。
――アナ・クィンドレン
これからの「フェミニズム」について
誰も傷つかない無謬の思想なんかありません。
フェミニストが表現物を燃やすとき、「ハラスメント」や「差別」という言葉を投げつけるとき、それを大事に思うファンの人々や、命をこめて創作物を創った方々は、確実に傷つくのです。
しかしそれでもなお、追い求めるべき理念があり、変えなければならない現実があり、守るべき人間がいるからこそ、表現物を批判する方々は、あえてそういう言葉を使われているのでしょう。
だからこそ、なぜそれがハラスメントなのか、どうなればハラスメントなのか、あるいは逆に、ハラスメントという言葉を投げかけられる人々がいかに傷ついているのか。どんな思いでそれを見ているのか。理解できる理由になっているのか。
私たちには相互に対話が必要です。
私はこれまで幾度も書いていますが、「お気持ち」は重要です。しかし、そのお気持ちをぶつけられるもう一方にも感情があるということを、私たちは忘れるべきではありません。
だからこそ、「対話」が必要なのです。
そして、そのお気持ちの理由や背景を言語化し、理解しあう必要があるのです。
一方が一方的に加害者で、他方が完全な被害者だ、などという構図が当てはまる場面はそう多くありません。
今回の討論会で、お互いが「一方的に被害者だ」と思っている、という不思議な構図が現出したのも、偶然ではないのです。私たちはある面で傷つけられ、ある面で他者を傷つけている。そしてそれはいずれか一方にだけ配慮すればよい、という問題ではないのです。
わずかでも傷つけば対話の可能性などない、さようなら、というのでは、ヤマアラシは雪山で凍え死ぬしかありません。
そして私たちはヤマアラシとは違い、便利な道具があります。言葉です。
私は言葉の力を信じます。言葉を積み重ねていけば、今より少しでも世界を温かい場所にできると信じます。
これは私の信仰告白にすぎないのかもしれません。
しかし、一人でも多くの人が私と信仰を共有してくれればいいなと、そう祈るのです。
青識亜論