グラビア防衛論 ~フェミニズム・ハラスメントの脅威~
石川優実氏の一編の論考が話題を呼んでいる。
コンビニエンスストアから成人誌が撤去されたことは記憶に新しいが、さらに一歩踏み込み、「グラビア表紙」についても是非を問う声を上げたのである。
この問題については、グラビアアイドルの倉持氏も言及し、議論はさらなる広がりを見せている。
本稿は、石川氏の主張が誤りであり、それどころか、ある種のハラスメントとしての構造を有することを、ひとつひとつ、彼女の主張を整理しながら解き明かしていく。
少し長いが、最後までお読みいただければ幸いである。
(長い文章がまどろっこしいと思われる方は、「結論」だけでもお読みください。)
論点整理:議論を支える二つの「前提」
石川氏は、グラビア写真に「反対」という単純な立場ではないことを、論考の最初で強調している。
まず、反対というのはちょっと違う。私はいいと思うが、このままの社会だと反対せざるを得ないな、と思っている。今なら反対しなくても済む世の中に変えることはできるんじゃないかと思っている。
石川氏は、単純に撤去を求める主張をしているわけではない。
むしろ逆に、グラビア写真を守るために、グラビア写真に反発したり、撤去を呼びかける人々の主張に耳を傾け、その原因を取り除くよう呼びかけるというスタンスをとっているのである。
その論理は、 整理すると次のようなものである。
1 現在の社会にはセクハラが存在している。しかも、多くの男性はそれが悪いことだと認識していない。
2 男性はセクハラをする生き物として生まれているわけではない。女性をセクハラしてもよいというメッセージを、どこかで学習しているはずである。
3 それはコンビニのグラビア写真である。コンビニという公の場で女性を性的に楽しんでよいという事実が、セクハラを正当化するメッセージとなっているのではないか。
4 このままではセクハラをなくすためにグラビア写真が排除されるかもしれない。グラビアを守るためには、根本原因であるセクハラや女性蔑視と戦うべきだ。
もちろん、石川氏の主張にはうなずける部分も多い。
不当な女性蔑視やセクハラに私たちは反対し、戦うべきであるし、グラビアという職業の女性たちに対する偏見や差別はなくすべきことである。
また、石川氏の反対者が彼女を性的に揶揄し、セクシュアルな嫌がらせを繰り返していることははっきりと不当であり、直ちにやめるべき卑怯な行為であると言える。
それははっきりと前置きしたうえで、この議論には二つの重要な前提が置かれておりながら、その論証が不十分であることを指摘したいと思う。
前提① グラビア雑誌のコンビニ販売は、セクハラを正当化するメッセージである
前提② グラビア雑誌の撤去はセクハラをなくすことにつながる
なぜこの二つの前提が重要なのか。
まず、前提①を欠いているのであれば、現代社会のセクハラの原因をコンビニのグラビア雑誌に求めるのは不合理であり、不当な攻撃であるということになる。不当な攻撃によって排斥されるグラビア雑誌を守るために必要なのは、攻撃者におもねることではなくて、反論し退けることにほかならないのだから、石川氏の主張は崩れる。
次に、前提②を欠いているのであれば、グラビア雑誌を撤去してもセクハラはなくならず、単にグラビア雑誌のファンたちを悲しませる結果に終わるだけとなる。それでもなおセクハラがあるのだからグラビア雑誌を撤去せよというのは、社会運動というより単なる「八つ当たり」であり、到底受け入れることはできない。
では、二つの前提について、石川氏の主張を見ながら、詳しく考察していこう。
反論①:グラビア雑誌はセクハラ肯定でも女性差別でもない
問題は水着を着ている女性ではありません。水着を着ている女性を堂々とコンビニという公の場で楽しんでもいいんですよというメッセージが継続的・日常的に送られているということです。
では、なぜそのようなメッセージ性が生じるのか。
石川氏はこのように説明している。
「女性を性的に楽しんでもいいよコンテンツ」が、フィクションだと思えないのだと思います。だってコンビニという公の場所でお金を払わなくても誰でも気軽に女性を性的に楽しんでもいいよコンテンツ=水着女性のグラビア表紙が置いてあり堂々と楽しんでいいんだもの。しかも小学生中学生が対象の少年誌。誰がそれを公の場でしてはいけないことだ!って思えるんだろう?って逆に思う。
コンビニで水着のグラビア女性の表紙を楽しむように、眺めるように、女性にセクハラをする人が多くいます。女性がセクハラを訴えた時に、「仕方ない」という人がいます。女性を性的に楽しむことがセクハラにあたる可能性があると認識できない人がいます。「だってそれは、コンビニで日常的に行われているじゃない。なのになんで違う場所でするとセクハラになるの?女を性的に楽しむことは許されてるでしょ?」そう思ってしまっても仕方ないのかもしれません。
この二つのパラグラフが石川氏の論拠だ(傍線強調は筆者)。
主張を整理するとこうなるだろう。
・グラビア写真は「女性を性的に楽しんでもいいよコンテンツ」である。
↓
・そのコンテンツはコンビニのような公の場所で売られている。
↓
・どこでも女性を性的に楽しんでいいというメッセージになっている。
↓
・ゆえに、セクハラを肯定している。
しかし、この論理は飛躍がある。
確かに、グラビア写真が「女性を性的に楽しむコンテンツ」であることには疑いがない。そのような写真を表紙にして売ることが、「いいよ(肯定)」のメッセージを与えていることも一定は是認できよう*1。
だが、「女性を性的に楽しんでいいというメッセージ」がセクハラ肯定になっているというのは、明らかな飛躍である。少なくとも、両者を結節する有効な論理を、石川氏は提示できていない。
言うまでもないことだが、女性に限らず、人間が人間を性的に楽しむことそれ自体は悪でも不正義でもない。
恋人同士がお互いの身体を性的に求めあい、性的に楽しむことは、セクハラではない。
また、もし恋人ではないとしても、対等で自由な合意の下、誰かに性的な楽しみを与えることも、セクハラではない。承認や金銭を求めた性的関係が存在することは、それ自体不正義ではないのだ。
セクハラであるとは、権力や暴力などによって、「本人の意に反して」性的な言動や関係性におかれることを指す*2。
重要なことは、性的に楽しみ、また楽しみを与えるということについて、お互いが対等な関係性において同意と了解が結ばれているかどうかなのであり、「性的に楽しむこと」「それを肯定的に言うこと」自体がセクハラの肯定になっているというのは、明らかな論理の飛躍である。
グラビア写真のどこをどう見れば、本人の意に反する性的関係性(セクハラ)の肯定になっているのだろうか?
石川氏は、「どこでも」「公の場所」という要素をさりげなく挿入して、セクハラとの関係性を主張しようとしているが、究極的に重要なのは公共性や空間の性質ではなく、性的な関係性についての対等な合意があるかどうかなのである*3。
そして、少年誌のグラビア表紙は、明らかに、合意を軽んじてもよいとか、権力にものをいわせて女性に性的な関係性を強要してよいなどというメッセージを含んではいない。
むしろ逆であろう。
グラビアアイドルは容姿や才知において優れた数多の候補者の中から、きわめて高い倍率の競争を勝ち抜いたプロフェッショナルである。
現に、グラビアアイドルの倉持氏は次のように述べている。
私は週刊少年マガジンのグラビアを飾っていた優香さんや乙葉さん、イエローキャブ軍団、ミスマガジンさんたちを見て「エロいなぁ、女体っていいなぁ、グラドルになりたい!雑誌の表紙になりたい!」と思ってこの世界に入りました。私の夢だった週刊少年マガジンのグラビアを奪わないで欲しいのです。(中略)
キレイなもの、美しいもの、エッチなものに興奮するのは男性も女性も一緒です。それをお互いが納得の出来る範囲で表現すればいい。本人が「やりたくないけどやらされていました」と訴えていたなら、その子に対しては問題ですけど、大多数はそういう仕事がしたくてその世界に入っているわけで。それの一体何が問題なのか不思議です。
石川氏自身も、論考の中で「グラビアアイドルにとって少年誌の表紙は大きな夢」であることははっきりと承認している。
自らの夢の実現として「性的な楽しみ」を少年たちに与えていることは、セクハラ的な関係性とは逆の、確固たる意志が存在している。
グラビアアイドルの磨き抜かれた身体から少年たちが性の楽しみを得、その美しさに素直な賞賛を送ることは、女性を無理やり隷属させ、セクハラや嫌がらせをすることとは真逆の、双方が主体的に構築した関係性なのである。
にもかかわらず、「セクハラを肯定するメッセージを持っているはずだ」というグラビア攻撃者の主張に正当性を見出す理由はなんであろうか。石川氏がより明確な説明を提示しない限り、攻撃者の言いがかりに加担しているとみなさざるをえない。
また、石川氏は「女性を容姿でジャッジすること」と関連付けて論じようとしているが、優れた身体性によるパフォーマンスへの素直な賞賛は、それに劣るものたちへの侮蔑とはまったく別のことであるし、ましてや差別であるわけでもない。
例えば、陸上選手の競技を見て楽しむことは、足が遅い人への侮蔑ではありえない。
もしも、「足の不自由な障がい者への差別が社会的に存在するのだから、陸上競技は差別的メッセージを持っている」とか、「差別が無くなるまでは公共放送で陸上競技を放映するな」と主張する人がいたとすれば、私たちはびっくりして、「それは無関係の話だ」と反論するだろう。
グラビア写真であったとしても、同じことである。
私たちは、確かにグラビア雑誌やアイドルの魅力的な姿やパフォーマンスから、「性的な楽しみ」を受け取っているし、その素晴らしさに感嘆し、賞賛することもあるだろう。
しかしそのことは、全ての人がアイドルと同じような生き方をしたいと思っているはずだ、というメッセージを意味しない。
それは、奇しくも日向市のCMのときに、あるフェミニストがこのCMを擁護するために述べたように、逞しい筋肉を持つ男性の裸体を肯定的に表現することは、「あなた(すべての男性)にそれを求めているわけではない」のと同じことである。
反論②:グラビア写真の排除はセクハラ対策にはならない
これについて、石川氏はこのように述べている。
水着を着ている女性は一つの仕事としてしているということを理解し、仕事なので当然男女雇用均等法や労働法が適応されること、お給料だって正当に受け取ることができることを理解し、フィクションとして女性を性的に楽しむ場を作ってくれている職業であって感謝はしても見下すなどしてはいけないということを認識し、その場所でも本人が嫌がることはしてはいけない。(中略)
そうなれば、コンビニに女性の水着が表紙として置かれていても、大丈夫なんじゃないでしょうか。あれが当然のものではなく特別なものだと知っていれば、女性は自分が性的にジャッジされることに繋がっていると感じなくて済むでしょう。
まず、この部分で述べられている主張そのものは正しいということを、私ははっきりと認めたいと思う。
グラビアアイドルの皆さんの労働者としての権利を守るべきなのはまったくそのとおりであるし、「水着を着ているから」という理由で偏見を持ち、「性的嫌がらせをしても喜ぶはずだ」などと口にする人がいるとしたら、はっきりと非難されるべきことだ。その偏見は直ちに正されなければならない。
また、「フィクションとして女性を性的に楽しむ場を作ってくれている」ことに対する感謝を忘れるべきではない、という主張にも私は諸手を挙げて賛成したい。
しかし、そのことと、グラビア写真をコンビニから排除することとの間に、いったい何の関係があるだろうか?
差別が良くないという結論は認めるとしても、差別の存在が「グラビア写真を排除せよ」という主張に正当性を与えるとする理由は何か。
石川氏は当該論考の中で、この関係性を論理的に示さず、ただ「グラビア写真を排除されたくなければ女性やグラビアアイドルへの差別をやめよ」と主張するばかりである。
仮に、グラビアアイドルが水着を着て、私たちに性的な楽しみを提供してくれることが、グラビアアイドルという職業に由来する「特別なもの」だということが一切理解できず、「グラビアアイドルが笑顔で水着を見せてくれるのだから、すべての女性をセクハラしてもよいはずだ」と思ってしまうセクハラ親父がいたとしよう(そんな奴はいねえよという反発はいったん置いておいてもらいたい)。
言うまでもなく、これは典型的な「ポルノがフィクションだということがわからない奴がいたらどうするんだ」論法である。
では、考えてみよう。
コンビニや一般書店から、グラビア写真を排除したとしよう。
公の場から、「女性を性的に楽しんでもいいよコンテンツ」を排除したとしよう。
さて、問題は解決するのだろうか。
排除されたグラビアアイドルたちの写真が、公共の場から隔離されたアダルトショップのようなところで取引されるようになったとしよう。
水着の女性をすべて18禁の暖簾の向こう側においやったとしよう。
過激なアダルトビデオや暴力的な内容のポルノグラフィと同じ空間に、グラビアアイドルたちの写真を陳列したとしよう。
それで、グラビアアイドルへの職業的な差別が消えるのだろうか。
セクハラ親父たちは反省して、水着を着る女性への態度を改め、セクハラ的な思考をやめるよう改心するのだろうか。
もちろん、そんなことはありえないのである。
グラビア写真の排除は、「セクハラは許されない」とか「グラビアアイドルの待遇改善を」というメッセージとして機能することはない。
グラビア写真を公共の場所から追放した際に発信される真の「メッセージ」は、グラビアアイドルの水着姿は公共の場所にはふさわしくない、ということである。
もっと言えば、「グラビア写真とはいかがわしいものである」というレッテルを社会的に貼り付けることである。
それはグラビアアイドルたちが誇りを持って社会に送り出した仕事に、「少年たちが目にするのにふさわしくない不健全なもの」という烙印を焼き付けることに他ならない。
そのようなメッセージが、差別の改善に寄与するだろうか?
もちろん、そんなことはありえない。
そして、結局、アダルトショップで過激なセックス表現と同じようにグラビアアイドルたちの表現物は取引され、セクハラ親父はAVと同じ買い物かごにグラビア雑誌を放り込みながら、自らの偏見を強化し続けるであろう。
グラビアアイドルなんていかがわしい仕事をする女がいるのだから、結局、女は本音ではセクハラを嫌がってはいないのだ……と。
そのようなおぞましいセクハラ思考に対しては、公然と社会的に反論し、子どもたちに対しては教育によってその誤りを教えることが唯一にして最大の解決策なのである。
けっして、コンビニからグラビア写真を撤去することではない。
結論:「大切な何か」を守るために人質はいらない
ここまでの議論で示してきたように、セクハラ親父をやっつけることと、コンビニからグラビア写真を撤去することの間になんの関係もない。
何の関係もないとしても、グラビア写真を人質にとれば、男性たちは血眼になって動くはずだと思ったのかもしれない。
しかしそれは、浅はかであるばかりではなく、致命的な誤りである。
さて、ここで、「最悪のセクハラ親父」という存在について想像してみよう。
セクハラ親父は女性を手に入れるために手段を選ばない。
しかも狡猾である。
真正面から「俺のものにならなければクビだ」などとは言わない。
立場が弱い女性に近づき、欲望で目をぎらつかせながらこうささやくのだ。
「俺は本当はお前のことを守ってやりたいのだ」
「この社内で俺だけは君の味方だ」
そうしておいて、本来は仕事と無関係な性的関係を、自らの立場を利用しながら強要するのである。
「あなたが首にならないためには必要なことだ」
などと言いながら。
仮に、もしセクハラ親父が女性に抱く感情が主観的には完全な純愛であり、曇りなき思慕の念から生じた行為であったとしても、それは汚らわしいセクハラである。
いかなる純粋な愛であったとしても、まったく無関係な他者の弱みを人質にとって実現しようとした時点で、その愛はどうしようもなく汚れ切ってしまうのである。
ある思いが純粋で大切なものであればこそ、無関係ななにものかを人質にとって要求を実現しようとするような方法を取ってはならない。
それはその思いの純粋さそのものを汚すことになるからだ。
では、石川氏はどうだろうか。確かに、石川氏の訴えるグラビアアイドルへの待遇改善や、女性への偏見をなくそうという主張は完全に正しい。
だが、その純粋で切実な主張を訴えるのに、正しい手段をとっていると言えるだろうか。
石川氏は、成人誌がコンビニから撤去された事件に触れ、次のように言う。
成人誌はコンビニから消えました。私は共存できる手があったんじゃないか?と思います。表紙には犯罪や中出しなど女性に負担があるような言葉を一切使わないとか、女性向けの成人誌を作るとか、もっと暴力的な表現ばっかじゃなくてお互いが主体的に行うセックスを取り上げたエロ本とか。コンビニを使う人口の半分を占める女性の意見を聞いていれば、撤去しなくて済む方法があったんじゃないかな。
前回の投稿で述べたことだが、ポルノグラフィは性愛から疎外された人々にとって、とても重要な癒しであり、生きる糧である。
ネットが発達した現在、紙媒体の成人誌は、そうした通信手段を活用できないような高齢者や社会的弱者が、性愛への欲望を充足させる重要な手段となっている。
身近なコンビニで成人誌が手に入ることは、デジタルデバイド(情報格差)を埋めるための福祉としても機能していのである。
そうした人々が福祉を失う様を見下ろしながら、石川氏は「お前たちのほうに落ち度があったのではないか」「私たちの言うとおりにしていればそんな目にはあわなかったのに」と述べているのである。
まるで、「被害者にも落ち度があった」としたり顔で言うセカンドレイパーのようではないか。
さらに、自分たち女性にはコンビニから雑誌を撤去させられる影響力があるということを誇示した後で、石川氏は自らの要求を並べ立てる。
あ、私が社会活動するにあたってヌードの写真を送りつけてくる人たちにも怒ってください。あれは完全に職業差別ですよね。AV女優も風俗もグラビアも立派な仕事だ!その人たちの仕事を奪おうとするのか!と声高に叫んでいる人たち、この私への職業差別こそキレなきゃいけないとこなんじゃないですか?立派な仕事してるのに私めっちゃひどい目にあってますよ。
そして、「コンビニから水着の表紙をなくさなくても済む方法」と題した論考をこのような言葉で締めくくるのである。
皆さんの行動を期待しています。
きっと、セクハラ親父も「クビにならなくてもすむ方法を教えてあげる」などと言いながら、生臭い息とともに、同じ言葉を女性の耳に吹き込んだだろう。
「キミの行動に期待しているよ」
と。
他者の大切なものを人質にとり、それとまったく無関係な行為を強要することはハラスメントである。
もしもフェミニズムの思想の下にそのようなハラスメントが行われるのであれば、それはフェミニズム・ハラスメントだと言わざるを得ない。
そう言うと、「石川氏やフェミニストには権力がない、だからハラスメントではない」などという反論が必ずと言っていいほどあるので、あらかじめ再反論しておく。
もし、フェミニストたちの主張に、本を撤去するほどの影響力がないのであれば、フェミニストの主張に従うことは、「コンビニから水着の表紙をなくさなくても済む方法」ではありえない。グラビア写真を守るために、影響力のない主張に従わなければならない理由はどこにもない。
セクハラ親父のように、自分たちの言葉に影響力があると思っているからこそ、「これこそがグラビア写真を「なくさなくても済む方法」だ」などと言いうるのである。
フェミニストが訴える理想がいかに純粋で正しいものであるとしても。
そのようなやり口は拒絶されなければならない。
人々が大切にしているものを奪われる恐怖、その恐怖をもとにした社会運動は、私は文字通りの「テロル」だと言わざるをえないと思う。
私は、本来のフェミニズムは、そのような思想ではなかったと信じる。
思春期の少年たちにとって、少年誌のグラビア写真のもたらすエロスはとても貴重なものだ。
人はパンのみにて生きるわけではない。
青春のオカズは常に、少年たちの人生を左右する大きな問題であり続けた。
特に、青春の性生活を何の不自由もなく謳歌しているリア充よりも、日陰におかれ、不遇な青春を送ってきた少年にとっては、それは乾いた砂漠における水のように重要なものであったことだろう。
……馬鹿げている、そんなものは議論するに値しないと言うだろうか。
だが、黎明のフェミニズムは、物質的に恵まれた専業主婦の抱える「実存の悩み」を「名前のない問題」として見出し、彼女らの私的生活を「個人的なものは政治的である」として、政治の舞台に引き上げたのではなかったか。
生死に関わらない個人的な問題など捨ておけというならば、第2波フェミニズムが女性の社会参加を推し進めたことの意義はいったいなんだったのか。
パンならぬものの意味を考え続けたのがフェミニズムの営為ではなかったのか。
フェミニズムの理想に忠実であるならばこそ、人間が抱える個人的な懊悩に目を向け、耳を傾ける必要があるのではないのか。
グラビアアイドルとして活躍していたとき、石川氏の仕事によってもたらされた「性の楽しみ」は、結果的に多くの青少年たちを救ったはずである。
それを奪われることの苦痛も、あなたは人一倍よく御存知のはずである。
あなたが女性差別やグラビアアイドルの職業差別をなくしたいと本当に願うのであれば、あなたは無関係な何かを「人質」とすることによって解決しようとするべきではない。
それはあなたが求める理想を汚し、ただのハラスメントに堕落させることに他ならないからである。
私はグラビア写真を含む私たちすべての大切なものを守るため、
自らの思想を通すために誰かの大切なものを人質にとる行為、
すなわち「フェミニズム・ハラスメント」に反対を表明するものである。
青識亜論
*1:念のために言えば、石川氏はここに「誰でも」「お金を払わず」という条件を無理やり挿入しているが、これは明らかな飛躍であろう。表紙の写真は販促のためのツールなのであって、一般的な社会通念として、それは表紙を見た人の一定数がお金を出して雑誌を購入することを期待してなされているものである。それはスーパーの試食コーナーで配られる食品と同じことだ。彼らは商品を購入してもらえることを期待して営利の一環として試食品を配布しているのであり、「お金を払わずに誰でも食品を食べていいよ」というメッセージを発信しているわけではない。そのことはおよそ一般的な社会常識を持つ日本人ならば了解可能であるはずであり、そしてそうであるならば、雑誌表紙のグラビア写真でも同じことであろう。
*2:男女雇用機会均等法では「職場において、労働者の意に反する性的な言動が行われ、それを拒否したり抵抗したりすることによって解雇、降格、減給などの不利益を受けることや、性的な言動が行われることで職場の環境が不快なものとなったため、労働者の能力の発揮に重大な悪影響が生じること」と定義しています。(法務省:http://www.moj.go.jp/jinkennet/asahikawa/sekuhara.pdf)
*3:職場における性的な環境(例えばヌードポスター)がセクハラになりうるのは、女性従業員は職務命令や人事権に服する立場であるため、職場環境に対して雇用主と交渉力に差があり、本人の真意とは別に不快な環境を受忍せざるをえない、もしくは労働そのものをあきらめざるをえない、という不平等な関係性が容易に想起されうるからである。究極的に重要なのは、ここでも対等な合意があったのか、または対等でありうる関係性にあるのかというその一点である。