青識亜論の「論点整理」

表現の自由に関する様々な事象について、ネットでの議論などを「論点整理」し、私の見解を述べるブログです。

そろそろTwitterフェミニストの色分けをしよう

 タイトルの通りだ。

   

 

先日、勝部元気氏がこのような記事を書き、フェミニストを分断するな! と主張した。一人一派などとさんざん言っておいて「なにをいまさら」という気がしなくもないが、氏いわく、フェミニストをジャッジするのは許されないようだ。

 

まあ、氏自身がいきなり開幕しょっぱなから対立論者にミソジニストという「ジャッジ」をしているので、語るに落ちているとはこのことだが、そこはまあ置いといて。

 

さて、しかしながら、氏がこのような発言をしなければならないほど、Twitterフェミニストの「色分け」が進んでいるという点は、非常に興味深い事象であると言える。

 

私は以前、このブログで次のような記事を書いた。

 

dokuninjin7.hatenadiary.jp

 

私は上記記事で、まさにアンチフェミニズム言説の「色分け」を試みたわけだ――女性憎悪を煽るだけのミソジニックな言説と、人権思想に根差すフェミニズム批判と。

 

そしてこの区別は、いまや、Twitterフェミニズムの内部についても可能となっているように思われる。ミサンドリー的な男性嫌悪やセクシュアリティに対する保守的倫理観に基づく「表現物炎上」に与してきた従来の「ツイフェミ」とは異なる、新しい潮流が力を持ちつつあるように思われるのである。

 

本稿ではその現状と可能性について一定の整理を試みるものである。

 

 

 

「女性の可能性」を広げるのが本来のフェミニズムである

 

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まずは、「ツイフェミ」の現在地を確認しよう。

 

先日、保育士兼グラビアアイドルの江藤菜摘氏のDVDが、Twitterにおけるフェミニストたちの批判の槍玉にあげられた。

 

 

成人女性が自らの意志において「保育士を売りにするグラドル」を選択することのなにがいけないのだろうか?*1

  

女性が自らの自由意志で多様な生き方を選択することの、どこがいけないのだろうか?

 

これが本来のフェミニズムだろうか。

 

確かに、歴史的には、女性の社会進出の障害となっている環境型セクシャルハラスメント(例えば職場にヌードポスターを貼るとか)を告発したり、ポルノグラフィ制作過程での性暴力を批判するなど、フェミニズムは「表現」に様々な申立をしてきた。

 

しかし、それはあくまで女性の選択肢を増やし、多様な生き方を選択できるようエンパワメントするものだったはずだ。

 

女性自身の自己表現を抑圧し、選択の幅を狭めることの何がフェミニズムだというのだろうか。

 

こうした傾向は、近年急速に強まっている。昨月、モデルの茜さや氏が写った企業広告が、胸を強調しているとしてフェミニストの批判を集め、炎上状態となった。この炎上の後、茜さや氏は自撮り写真をTwitterにアップするにあたり、次のように述べている。

 

 

自らの姿態をおさめた写真をアップロードするのに、なぜ「叩かないで」と許しを乞う必要が生じたのだろうか。

 

彼女をそのように「抑圧」したものはなんだろうか。

 

もしそれが「フェミニズム」だと言うならば、それは本当に女性解放の思想なのだろうか?

 

当然、「本来のフェミニズム」はそんなものではないはずなのである。

 

女性をより自由に、多様に、生きやすくすることが、フェミニズムの使命であったはずだ。自由を抑圧し、選択を否認することはフェミニズムではない。

 

ただの単なる性嫌悪やミサンドリーに被覆されたフェミニズムは、いまや自由を縛る呪いの言葉となって、Twitter空間にあふれている。

 

それは、女性憎悪を煽るミソジニックな言説と「こだま」のように共鳴しあい、真に守られるべき自由や表現や人間そのものを焼き尽くそうとしている。

 

 私たちはこの憎悪の連鎖をなんとか断ち切らなければならない。

 

 

「ツイフェミ」に異議申立をするフェミニスト

 

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よい兆しもある。

 

ここ数年にわたる表現規制等を巡る議論の中で、フェミニズム的な語彙や論理に対する 批判が蓄積されてきたことにより、「ツイフェミ」による炎上に対して、多くの人が即座に反論し、不当だと声をあげることができるようになったことだ。

 

そしてその中で、フェミニストを自認人々からも、そうしたツイフェミたちへの異議申立が行われるようになったことである。

 

 

これは、意に沿わない表現をする女性を攻撃するようになった「ツイフェミ」たちに対する、痛烈でまっすぐな批判である。

 

さらに彼女は次のように主張する。

 

 

完全な正論である。

 

これに対して、ツイフェミ論客として知られるよもぎ団子氏が、次のようにコメントをしている。

 

 

これは一端に過ぎない。

 

いかなる生き方であっても女性自身が主体的に判断したのなら尊重されるべきだ、というこのピッピちゃん氏のまことに女性の自由を求める意見に対して、多くの「ツイフェミ」のみなさんが、批判をぶつけているのである。

 

しかし、ピッピちゃん氏は毅然として反論している。

 

  

 

こうした潮流が、徐々に、しかし確実に生まれつつあることを、私は素直に言祝ぎたい。

 

私は、先ほどこれを「新しい潮流」と書いたが、フェミニズム全体の歴史に視野を広げれば、これはとても「古い潮流」であると言える。

 

女性の自由と選択の多様化を求める思想は、本来の「伝統的な」フェミニズムであると言っていい。

 

そして、このような対立は、すでにフェミニズムの長い歴史の中で、幾度も繰り返されてきたことなのだ。

 

例えば、ポルノ規制派フェミニストのキャサリン・マッキノンらを批判した、ACLU元代表のナディン・ストロッセンなどは、この「本来のフェミニズム」の代表的な理論家であると言えよう。

 

彼女は著作の中で、コロンビア大学ロースクールで勉強しながら、ストリップ劇場で働く女子学生の声として、次のような言葉を紹介している。

 

学生時代を通じて、私は自分をフェミニストであると確信していました。しかし、ストリップを始めて以来、「体制側」フェミニストは、私を、よくて無知な犠牲者、悪くすれば敵と考えているのではないかと感じ始めました。……現在、禁欲的で厳格なフェミニストたちは、女性を解放するというよりもむしろ、女性の性に対する意識や自由を抑圧しようとしています。すべてのポルノグラフィやストリップを、邪悪で危険な闇の怪物、女性を貶め、暴力的な犯罪を引き起こす根源として描くことで、女性解放運動家たちは女性自身のセクシャリティを否定しています。

(ナディン・ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論』)

 

そしてまた、表現規制を要求する「禁欲的で厳格なフェミニスト」に対して、次のように苦言を呈している。

 

女性の扱いに特別な気遣いを要求するということは、女性は小さくか弱い存在で、不快なことを聞くことに耐えることも、男性にとってはごく普通の苦難に対処することもできないと暗に言われているようなものである。これこそが、女性に対する侮辱だ。性差別主義が横行する法曹界に女性が進出していくためには、女性をまったく対等な相手として遇し、平等の利点だけでなく重荷もひるまず与えることが、最良の方法なのである。

(ナディン・ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論』、強調下線筆者)

 

実際に、以前より、多摩湖氏や柴田英里氏らは、女性の自由と意思決定の多様性というこの「本来のフェミニズム」の観点に立って発言されてきた。

 

ネット空間において、「ツイフェミ」が「フェミニズム」という語を簒奪して久しく、若い世代のピッピちゃん氏から見れば、それが「新しい運動(第4波)」に見えたというのは、実に皮肉な話である。

 

ピッピちゃん氏から見える新しい波は、フェミニズムにおける最初の、そして今も続く、大きな波として底流にあった。

 

憎悪の濁流がそれを覆いつくし、見えなくなっていただけで。

 

私たちは、巨大な憎悪のうねりに抗しながら、その場所で自由を擁護し続ける本来のフェミニストたる彼女らを、敬意をもって「ツイフェミ」と区別し、色分けしようではないか。

 

そして、自他ともに認める「アンチフェミ」であるところの私であるが、

その本来の意味では私もまた、一人の「フェミニストなのである。

 

 

それでもなお、対話を続けよう

 

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では、私たちはそのような「対話が通じる人」とだけ対話をすればいい、他は無視せよと言ってしまってかわまないのだろうか。

 

実際、例えば先ほど引用したよもぎ団子氏のように、「男性に媚びるような生き方を女性が選択することは許されない」とか、「名誉男性だ」というような考え方に凝り固まっている人々と、いくら対話を積み重ねても、そうそう簡単に考えを変えられるとは思われない。

 

ならば、そうした人々とは対話をする必要がないのだろうか?

 

御存知の方も多いと思うが、先日、私がろくでなし子氏とツイキャス配信をしていたときに、よもぎ団子氏が自らコラボ参加をしてきたことがある。

 

慣れない配信器具を使いながら、聞き取りにくい小さな音声で、献血ボイコット呼びかけの件を謝罪してきたのである。

 

なぜ批判されているのか、よもぎ団子氏自身、本当に理解しているのか怪しいところもあるが、それでも、対話をしようという意志だけは汲み取れた。*2

 

私たちは、彼のような人物と、対話を拒絶するべきだろうか。

 

ろくでなし子氏はその日、次のようなブログ記事を配信した。

 

6d745.com

 

わたしの逮捕騒動時、わたしの弁護団に「山口貴士というオタク弁護士は絶対入れるな」と某フェミニスト達に言われたものの、表現の自由ワイセツ案件で実績のある山口先生を外すことは考えられず、弁護団の一員になっていただいたのですが、それを機に、わたしは「裏切り者」としてフェミニスト界隈から実質追放されました。

(上記ブログより引用、強調著者)

 

私はろくでなし子氏の意見に100%同調するものではないが、ここの出来事はたいへん示唆的であるように思われる。

 

表現の自由を求める運動は、本来、左派やフェミニストの多くも関わっており、どちらかというと保守的な性道徳観念に抗う運動であった。

 

それが、いつから、どのようにして、今の「ツイフェミ」のような人々が支配的・多数派となったのかを考えてみる必要がある。

 

論を中身ではなく話者の人格で評価するようになり、妥当な批判だとしても「敵」だからといって排除するようになればどうなるか。

 

対立者をブロックし、心地のよいことを口にする仲間だけを集め、少しでも異論や耳に痛いことを言う人を「裏切者」として排除する……そのようなことを繰り返していれば、やがて独善的で閉塞した論理が支配するのは目に見えている。

 

私たちは、その結果として憎悪に染まった人々の事例を、いままさに目前で見ているではないか。

 

ミソジニーミサンドリーも鏡映しの憎悪にすぎない。私たちはいずれも社会を動かす原理としては拒絶しなければならない。

  

対立者と議論することは、私たち自身を映し出す鏡をのぞき込む行為だ。私たちが矛盾や錯誤を抱えたり、憎悪や嫌悪のあまり論を過つなら、対立者は即座にそのことを指摘してくるだろう。

 

実際、私にも「アンチ」が多くいるが、その中でも賢明な人々の指摘には常に助けられてきた。場合によっては修正したり削除したり、謝罪することもある。そうやって過ちをリカバリーできるのだから、アンチとの対話というのは大事だし、賢明なアンチというのは実にありがたいものなのである。

 

なにより、もし、対立者を「対話ができないもの」としてミサンドリーの箱に放り入れて事足れりとし、ただひたすら対立構造を煽るなら、それはなにもかもにミソジニーというレッテルを貼って良しとした「ツイフェミ」と同じになってしまう。

 

私たちは、相いれない人々ともなお、相いれないなりに共存しなければならないのである。

 

オタクとツイフェミ、ネトウヨ在日コリアン、そして様々なマジョリティやマイノリティの人々。社会からいずれか一方を排斥するわけにはいかない。

 

憎悪と攻撃は一時的に人々の心を奮い立たせることはできても、永遠に続く社会の未来を創るものにはなりえないのである。

 

だからこそ、対立する人々同士が話し合い、傷つき傷つけあい、分かりあえないなりに共存できるルールや距離感をつくっていかなくてはならない。

 

雪山に遭難したヤマアラシたちのように。

 

それは痛みをともなう作業ではあるが、それでもやっていかなければならないのである。

 

痛みを負う勇気ある「ツイフェミ」の人々からでも、地道に、対話をはじめていかなければならない。

 

男だろうが女だろうが、オタクだろうが性的マイノリティだろうが、憎悪のままに殴りつけてよいわけがない、という当たり前のことを当たり前に思い出すまで。

 

私たちは対話をやめるわけにはいかない。

 

以上

  

 

 

青識亜論

 

 

(追記)K3さんのハッシュタグ「#石川優実批判」について

誤解を持っている人もいるかもしれないので注記するが、このタグは私ではなく、K3氏が作成したものである。

 石川氏を批判しているつぶやきの内容を見れば、人格攻撃や容姿への中傷となっているものが少なくない。

このタグを使って批判を展開している方々の中にも、結局は個人攻撃に陥っており、K3氏が何度も注意をしたり、修正を求めたりする様子が散見される。

他者への批判はあくまでその論に対するものにとどめるべきで、憎悪の増幅装置にはならないよう気を付ける必要がある。

*1:表現の内容によっては、保育所に子供を預けている保護者や、「セクハラ保育士」の風評被害を受ける現場の保育士が、不安や懸念を持つということはありうる。しかしそうであるならばなおさら、勤務園を探したりして、いわゆる「犯人探し」をすることになんの意味があるのだろうか。本当に女性をエンパワメントする思想であれば、なおさら、わざわざグラビアアイドルが保育園で働きにくくなるような情報を拡散する意味はないであろう。

*2:とはいえ、対話する意思があることと、主張の妥当性は別問題である。ツイキャス後、よもぎ団子氏の主張を注意して見るようにしていたが、献血ボイコットの件を仮に脇に置くとしても、よもぎ団子氏の意見はあまりにも無茶苦茶であり、また非論理的であって、私個人としては到底同調できない。ろくでなし子氏もその点については同様であろう。