青識亜論の「論点整理」

表現の自由に関する様々な事象について、ネットでの議論などを「論点整理」し、私の見解を述べるブログです。

アンチフェミニストの弁明

  

いつものように私がツイッタランドを周遊していると、一編のテキストが流れてきた。

昨今の非モテ論を痛烈に批判した内容である。

  

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ここのところ借金玉氏は強力に非モテ論・アンチフェミへの批判を繰り広げているが、

いわゆる「非モテ論」界隈が反発するかと思いきや、実に静かである。

彼らは何を投げ返せばいいのかがわかっていない、

どころか「何を批判されているのか」すら分かっていないようにさえ見える。

 

私はとりたててフェミニストのアンチというわけではないし、

非モテ論というものに強い関心があるわけでもない。

しかし、あまりにもすれ違いが続いているのがもどかしいので、

あえてアンチフェミの側に立ち、「何を述べるべきか」を考えてみたいと思う。

 

もちろん、非モテ論まわりの知識について不勉強なので、

エビデンスをしっかり固めての論証にはならない。

(そのあたりは、すもも氏ら統計に明るいみなさんの今後の仕事に期待するとして)

界隈の議論を端から見たものの意見として、率直なところを述べたいと思う。

 

 

 

 

林檎の樹を蹴り飛ばしたのは誰なのか

 

借金玉氏は、テキスト冒頭においてこう述べている。

 

努力しているからといって他人を評価したりはしないし(これは語弊がある、努力しているということの事実性を評価しなければいけないタイミングというのは存在し、その場合は評価する)、あるいは誠実な人間を評価したりもしない。

 

これは人間だれしもそうであろう。

独りよがりに努力し、「私は好かれて当然のはずだ」と言っている人を、

私たちは果たして好きになるだろうか。

 

誰かを愛するのに理由がいらないように、

理由があるからといって愛さねばならないというものではない。

そして、借金玉氏は次のように言う。

 

愛というのは常に個別具体のものであって、義務を果たした者に与えられる果実ではない。しかし、私は義務を果たしたのだ、何故果実が降ってこないのだ、と彼らは林檎の樹を蹴り飛ばし始める。

 

義務を果たしたからといって、私たちはその人に愛や慈しみさといった、

個人の人格的リソースを割く必要はない。そんな義務はないのである。

人間が有限な存在である以上、優しさというものも限られたリソースだ。

ならば、人は自らの手の中の林檎を、自由に配分することができなければならない。

他者から均等分せよなどと求められる必要はない。

林檎を共有するパートナーを、私たちは自由に選んでよい。

それは、自由の最も原初的で根源的な意味であったはずだ。

 

私達は人格的リソースをきわめて恣意的に分配する。

それが自由な人間であるということだ。

愛や慈しみに限らず、敬意、思慕、感謝、誠意といったものもそこに含まれるだろう。

 

しかし、二十世紀、林檎は均等に取り分けられるべきだと主張した思想があった。

その思想は女性が家庭の中に閉じ込められ、社会的関係性から隔離されている状況を、

「名前のない問題」として告発した。

彼ら/彼女らは「個人的なことは政治的なことである」という、

歴史上有名なスローガンを掲げた。

単に法律上の自由権が外面的に付与されるだけは不十分であると論じ、

努力をして十分な能力を獲得した人は、「評価」されるべきだと述べたのである。

義務を果たした人々は当然に果実を与えられるべきだと論じられた。

 

その人々は社会のあらゆる場所で林檎が均等に切り分けられないことを問題視した。

職場に、家庭に、キャンパスに、学校に、その人々は不均等の兆候を見出した。

カップラーメンのCMが「私作る人、あなた食べる人」と言えば、

不平等な性役割分業であるとして蹴り上げたし、

ミスなんとかというような催しがあれば乱入して滅茶苦茶にすることさえやった。

あらゆる場所の林檎の樹を蹴って、蹴って、蹴りまくったその人々は、

いつしか「フェミニスト」と呼ばれるようになったのある。 

 

フェミニストの主張の重要な根拠は、努力して能力を培った人間は、

正当に評価されなければならないという平等原則だ。

男性ならば簡単につかみ取れる果実が、

女性であるというだけで高い高い場所に手を伸ばさなければならない。

選挙権や法的な権利の面で形式上平等であるだけでは不十分だ。

尊厳や敬意といった人格的資源、つまり林檎も手に届く場所にあるべきだ。

社会が林檎を適切に配分しないのならば、林檎の樹をどしどし蹴っていこう。

そういう社会運動が「第二派フェミニズム」というやつである。

 

フェミニストのみなさんのおかげで、女性の社会進出はずいぶんと進んだ。

能力のある女性が社会進出すれば社会全体の厚生を高める。

これも、義務を果たした女性に果実を、と林檎の樹を蹴り上げたおかげではないか。

実にすばらしい。

 

……であるなら、非モテ界隈の諸君もまた、

「義務を果たしているのだから果実を与えよ」と言ってもよいのではないか?

 

ところがこういうことを言うと、

きまって「愛と経済は違う」とか「恋愛は特別」という意見が必ず出てくる。

いったいどこが違うというのだろうか。

なぜ性愛だけがオーセンティックな扱いを受けなければならないのだろうか。

経済は人の生き死にに関わる重大な問題だというかもしれないが、

それを言うならば愛って同じことである。

社会的関係から疎外された専業主婦たちの実存が「名前のない問題」ならば、

性愛やパートナーシップから疎外された一群の人々もまた、

現代の「名前のない問題」ではないのか。

 

非モテ界隈の諸君が主張するように、

本来パートナーを幸福にする能力を有する者がパートナーシップから疎外され、

「暴力的(agressiveness)」な人々が不当に優遇されているのであれば、

それは是正されるべき状況なのではないのだろうか。

ねえ、フェミニストの皆さん。だって「個人的なことは政治的」なんでしょう?

 

ならば、非モテ界隈諸君も第二波フェミニズムのひそみにならい、

社会のあらゆる場所の林檎の樹を蹴り上げていこう。

逞しいマッチョな男性を描いたCMや恋愛漫画を差別だフンダララと喚き散らし、

上方婚を志向する女性を取り囲んで魔女裁判のリンチにかけ、

コンビニに並ぶゼク〇ィを、何とかハラスメントと命名して焚書にかければよろしい。

 

フェミニストの皆さんはそう言うと決まって、

「私達はあなたのママじゃない」などと宣ってきたわけだが、

それで平等原則を退けることができるのであれば、

男性も「父権制」もあなた方のパパじゃないのだから、

あなた方が勝ち取ってきた林檎を、殴り倒して取り上げてもいいはずである。

再び家庭の奥深くに女性を閉じ込め、男性のよろしきように林檎を配分すれば、

幾分か非モテ男性にも分け前が回ってくるかもしれない。

 

男女雇用機会均等法で林檎の樹を蹴り上げることが許されるのなら、

モテ機会均等法でも作って、林檎をきれいに人数割にして分ければ万事解決だ。

非モテ界隈諸君は、少なくとも第二波フェミニズムが蹴り上げたのと同じ程度には、

社会に生えた林檎の樹を蹴り上げる倫理上の権利があると、私は思う。

 

そうれなれば、さあ、階級闘争の始まりだ。

林檎を取り合って、お互いに蹴りあいを始めればいい。

 

非モテ界隈の諸君も、アンチフェミニストの諸君も、

これまではそんなことは馬鹿げていると、本気でやろうとはしなかっただけなのだ。

その馬鹿げたことをフェミニストはやり続けてきたのだから、

少なくとも応報原理から言えば、あなた方にも馬鹿になる権利がある。

どうするかはあなた方次第だ。 

 

 

 

恋愛工学と発達障がいライフハックは何が違うのか

 

率直に言うと、私個人としては、そのような馬鹿げた道を取りたいとは思わない。

では、どうするか。もう一つの道があるはずである。

 

繰り返しになるが、林檎を平等に切り分けなければならないなどという義務は、

本来、私たちには一切ないのである。

講演会の壇上にあげる講師の性別が片方の性に偏ってもよいし、

私立大学が性別を選考理由に含めてもよいはずなのである。

 

ダマでやっていることが問題?

ならば、恋愛なんてたいがいがダマで相手を選別しているでしょう。違いますか。

顔面偏差値で足切りした相手に、受験料よろしく飲食の支払いをさせたからといって、

咎めたてられる理由はどこにもないはずだ。

あなたは、自分の林檎を分け与える人間を、自由に、恣意的に決めていい。

 

その前提をまず受け入れるところからはじめよう。

世界は不平等で、恣意的で、ままならないものである。

 

そんな世界で林檎を手にしたいと思うのであれば、

私たちは林檎を手にできるよう努力する必要がある。

「男らしさから降りなさい」などという無責任な言葉はこの際忘れ、

エマ・ワトソンの背中は蹴り飛ばしておけばいい。

あなたは脚立に登り、背伸びをして、やっと一個の果実を掴み取るのだから。

それでもなお、あなたは脚立から落下し、傷だらけになりながらも、

ただの一つの林檎も手にできないかもしれない。

ボトボト落ちてくる果実を鷲掴みにして貪る人を横目にしながら、

それでもまた私たちは脚立を建て、高い樹に登ることになるかもしれない。

それが私たちの世界のありさまである。

 

ところで、傷だらけになった人の手に、そっと「高枝切りばさみ」を握らせて、

「やっていきましょう」と優しく声をかけてきた人のことを、

私は少なくとも一人は知っている。

 

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その人は、会社や集団における一見無意味な慣習を、

「茶番」とか「部族の掟」と呼んだ。

発達障がいを抱え、生きづらさを抱える人は、しばしば茶番センサーが敏感で、

社会の様々な営為をくだらないと思い、軽んじてしまう。

この人の優しさは、「だからお前はダメなんだ」と言うのではなく、

「あなたが茶番だと思うのは間違いではない。確かにその行為はくだらない。

 でも、それを全力でやることが、集団で生活をやっていくために、

 とてもとても重要なことなんだ」

ということを丁寧に説き起こしているところだ。

 

例えば意識の高いビジネス啓発書なら、茶番や部族の掟などという言葉を使わず、

もっともらしい、参加しないことに罪悪感を覚えるような

ずっとポジティブな言葉をあてるだろう。

 

実際、ある人は、この茶番という言葉は「定型発達者」を小ばかにしており、

不当に見下すものだと批判している。

「発達障がい者は定型発達者の社会を『部族』などと呼んで馬鹿にしている」

というイメージにつながりかねないという批判だ。

 

だがこの批判は、「茶番」や「部族の掟」という言葉に

筆者が託した思いを無視している。

この言葉は「自分は社会がやれない」「協調性がない」として自罰的になっている、

まさに発達障がいの当事者に向けられた言葉なのだ。

集団の他のメンバーが疑問を持たずに従っている慣習に、

いまひとつ乗り切れない当事者に向けて、「あなたの考えはそれでいい」

「けれど割り切って全力でやりなさい」というメッセージを届けるために、

あえて「茶番」「部族の掟」という言葉を使ったのである。

少し諧謔的な単語を使うことにより、心理的な障壁を軽くする、

いわば糖衣の役割を果たしているのである。

 

そして私は、このことは恋愛の問題について語る、

非モテ界隈のみなさんにも同じことが言えるように思えてならないのである。

批判を受けている「暴力」という言葉も、

「茶番」と同じような言葉の綾ではないかと私には見える。

  

林檎の樹に駆け上がるように登り、ひょいひょいと軽業じみてわたっていく、

その過程をも楽しめる「恋愛強者」の人もいる一方で、

恋愛にまつろう物事が何か儀式のように感じられ、

そこに茶番を見出してしまう「弱者」もいるはずである。

彼らに高枝切りばさみを渡すためには、どのような言葉が適切だろうか。

あなたには愛が足りない。

真実の愛はそのようなものではない。

気持ちと気持ち、ハートだ。情熱だ。執着だ。

異性を見下すなと説教を垂れるのが正解なのだろうか。

 

恋愛を工学的な対象物として扱うという試みも同じような綾であると思う。

もちろん恋愛は工学が対象とするようなモノではない。

人間の心は工学的な解析になじまない、神聖で唯一でかけがえのないものだ。

しかし他方で、恋愛というものに熱狂できない人が、

この恋愛至上主義の社会の中で、パートナーシップを得るためにどうすればいいか。

ともすれば粗暴にさえ見える恋愛ゲームのプレイヤーになるためにはどうすべきか。

恋愛は神聖なものではなく、心は解析不能の不可知ではなく、

私達はあたかもエンジニアのように、粗暴な振る舞いさえも演じてみせればいい。

そのように説き起こすことは罪悪なのだろうか。

 

恋愛を語るために、「言葉の綾」を用いることはそれほどまでに罪深いのだろうか。

恋愛とは、カリカチュア化さえも許されない、神聖不可侵のものなのだろうか。

 

……もちろん、「暴力的」という言葉を使ったことは、

著しい語彙の貧困と言わざるをえない。

その点、「茶番」「部族の掟」という軽妙洒脱な表現を考えたことは、

まったく偉大な発明であると私には思える。

 

しかしそれでも、恋愛なり社会なりというゲームに不適合を起こした人々に対して、

一般化された技法、つまり脚立と高枝切りばさみを用意し、

彼らに受け入れやすいマインドセットを整えてやることは、

この不平等な世界を生き抜くのに有用な「ライフハック」ではないだろうか。

 

 

 

それでも私は林檎の樹に水をやる

 

本稿では非モテ論の二つの可能性をあげた。

一つは林檎の樹を蹴り上げて、世界を平等にするやり方であり、

もう一つは不平等なものとして諦め、エマ・ワトソンをしばきつつ、

林檎を獲得するためのライフハックを模索するという方法である。

 

私は自分自身の考えを口にすることをここまで極力避けてきたが、

そのまま論考を終えるのはいささかアンフェアとなりそうなので、

自分の現在のポジションを書いておく。

 

私は二つの可能性のうち、その真ん中を取りたいと思う。

男女平等というスローガンはほとんど絶対正義のものとして、

二十世紀の世界を席巻してきた。

しかし、「個人的なことは政治的なこと」とさえ主張したフェミニストも、

こと恋愛という営為については、政治化することを拒絶してきたと思う。

はっきり言えばそれはアンフェアな主張だ。

もし平等原則を心底正しいものとして掲げるならば、全ての林檎をミキサーにかけ、

粉々に液状化して各人に配るべきであろう。

そして、そんなことは人間には到底不可能なのである。

 

最初期のフェミニストであったオランプ・ド・グージュという女性は、

女性の自由というものについて、ミルトンの『失楽園』を引きつつ、

次のように述べた。

 

自由とは、悪魔の誇りをもって楽園を出て、地獄へと向かう態度にほかならない。 

――オランプ・ド・グージュ

ja.wikipedia.org

 

 

自由とは本来、そのような性質のものである。

自分たちにとって良い待遇のみを当然の権利であると主張し、

悪しきものは拒絶するというのは、自由な社会の帰結として望めるものではない。

自由とは常に苦しみを伴うものである。

 

とはいえ、私たちは一度口にした自由の果実を捨て去ることはできない。

自由となった人々を再び自由以前の状態に押し込めることはできないし、

するべきであるとも言えないのである。

 

ならば、私たちは自由の結果として、

何を現代の私たちが受け入れなければならないのか、

フェミニストは何を女性に対して説明するべきなのか、

ということは、十分に議論するべきことであるように思える。

 

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そして、私が思うに、

フェミニストが前世紀に主張したほど男女の性質は均質的ではないし、

男女の器質の差はフェミニストが思う以上に致命的な要素だ。

自由な社会においては、女性の社会進出も進むだろうが、

男らしさと女らしさが消えることはないだろうし、

男らしく稼得能力があり、マッチョで逞しい男性が有利であり続けるだろう。

また逆に、女性に女性らしさを求める思潮は残り続けるだろう。

 

それでいいのである。

 

世界に革命は必要ない。

社会が良くないのは男性が悪いとか、いやモテ男や女性が悪いとか、

資本家が悪い、ユダヤ人が悪いなどと、私たちは悪者を生み出し、

そいつらを倒せば社会はすべてハッピーになると主張しがちである。

林檎の樹をチェーンソーで切り倒せば、

自分にたくさんの林檎をもたらしてくれる、新しい樹が生えてくると夢想してしまう。

しかしそのような革命を求める思想は何ももたらさない。

林檎の樹を切り倒した後には、ただただ荒野が広がるだけなのだ。

 

結局、私たちは、

今ある林檎の樹からいかに多くの実りを得るのかを考えるほかないのである。

世界は平等などではないし、平等であるべきでもない。

しかし、世界が不平等であろうとも、

一人でも多くの人が幸福になる方法を考えることはできる。

どうやればパートナーと効率的にマッチングすることができるのか。

仮にパートナーを残念ながら得られない人がいたとして、

彼らが善く生きるためにどうあるべきか。

男女はどのぐらい均質に遇され、どの程度差別的にならざるをえないのか。

誰しもが完全完璧に幸せな楽園の幻想を拒絶し、

一つでも多くの実りを得られるよう、社会の優しさが最大化されるよう、

私たちは今日も議論を続けるしかないのである。

 

仮に私が林檎の果実を得られないとしても、

それでも私は林檎の樹に水をやる。

そのような努力の積み重ねが、私たちの社会の林檎の樹を大きく豊かに育てるのだ。

 

陳腐かもしれないが、未来につながる道は、そこにしかないのである。

 

 

青識亜論